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インタビュー

保護司として20年。灯し続けてきた“あかり”

信条は「我が子、人の子、地域の子」

江東区辰巳の「Café LaLaLa」。ビルの1階は、子育て世代からお年寄りまで、地元の人がひっきりなしに出入りするスーパー。脇にある階段を2階に上がると、そのカフェはある。ドアを開けると「カランコロン…」と、昔懐かしいカウベルの音。飾らない雰囲気の店内には、たくさんの写真が飾られている。ハンドメイドと思われる小物や、本、CD、水墨画の掛軸、なぜだか小さな仏像も。

 

「次から次へといろんな人が『これあげる』って持ってきてくれるんだもの。しまっとくわけにいかないから、こうやって飾っているの。統一感がないでしょ? 本当は、シックなトーンのカフェにしたかったんだけど(笑)」

 

犯罪や非行に走った人たちの立ち直りを支援する「保護司」を20年間務めた中澤照子さんは、退任したその数か月後、「これまで関わった人たちと、私自身の“居場所”になれば」という思いで、このカフェを始めた。「本当は、刑務所や少年院から出てきた子たちが、ここでちょっと働いて、人と関わってから、ハローワークでも行ってくれればという気持ちもあったんだけど、なにしろ自分のバイト代も出ないくらいだから、人を雇うのはまだまだ難しいですよ」と、笑う。

 

犯罪や非行からの立ち直りを支える「更生保護」活動で重要なことは、それが「地域の中で行われる」ということだ。犯罪や非行をした人は、処分を受けた後、地域社会に戻り、その一員として生きていく。だから、地域の事情をよくわかっている民間の人が、各自治体の「保護司」として、彼らを保護観察し、生活環境を調整し、犯罪予防活動に携わっている。非常勤の国家公務員。無給のボランティアだ。

 

保護対象者との関わりは、保護観察所の観察官からの依頼から始まる。受け持つことになった対象者とは月に2回面談し、親との面談も行う。そして毎月、報告書を提出する。観察官の依頼を断ったこともなく、必要だと感じればすぐに、何十回でも会ったという中澤さんは、結局、20年間で、120人以上の保護対象者と関わった。息子に疎まれる母親に料理を教えたり、リストカットを繰り返す少女から連絡を受けるたびに何十回でも駆けつけたりと、その関わり方には、単純に「保護司と対象者」というだけでは説明しきれない、大きさと深さがある。

 

「私ね、昔から、やたらめったらそのへんの子に声かけるから、“ヤッホーのおばさん”って呼ばれてたの。ヤッホーって都合がいいのよ、名前忘れちゃってても、『おー、ヤッホー!』って言えばいいんだから(笑)。人に関わることが好きなんですよ。いつも気にかけている。たとえば、保護対象者の家の近くを通るでしょ? そうすると気になって、あの階だな、あの部屋だな、あ、洗濯物ぶら下がってるな、あの子のお母さん、ちゃんとやってくれてるな、って思うわけ。それは、何時から何時までってタイムカードを押す仕事とはやっぱり違うんですよね。人の子も我が子と思ってね、そういう気持ちでやってきたから」

 

「声かけは、種まきなんですよ。こないだもね、駅のエスカレーターで、私の前に乗ってた男の子が、紫のきれいな色の、そりゃあ気合いの入った髪型してたの。それで声かけたんですよ、『君の髪、かっこいいねぇ〜』って。お世辞じゃないんですよ、本当にそう思ってるから、私、つい言っちゃうの。そうしたら彼、びっくりしてたけど、『ありがとうございます!』って。きっとあの子はその後、しばらくは、いい気分でいられたはずなんですよね。そうすれば、たとえ人と肩がぶつかったって、『てめえこの野郎!』ってならないでしょう? 悪い人を注意するのはなかなか難しいけれども、いい気分の人を増やすことはできるはず。そんなことが犯罪予防につながる。私はそれを四六時中やってるだけなの」

 

 

お世話好きの照子ちゃん

中澤さんは昭和16年、東京都文京区に生まれた。坂の上は屋敷町、坂を下りれば下町。環境の違いがある中で、その両方と関わりながら育った。大きなお屋敷が、昼間から雨戸を閉めてひっそりと静まり返っているのを見たその足で坂を下りてくると、下町はどこも、こうこうと灯りがついて、大人も子供も賑やかに生活をしている。明るいものも暗いものも、どちらも日常なのだということを、子供ながらに感じていた。

 

「うちは、父親が小さいながらも商売をしていた家で、いろんな人が出入りしていました。父に仕事や、やりくりのことで相談がある人はお店へ、母に相談事がある人はお勝手にまわって。うちだって家族の病気や、経済的な不幸もあって、いいもの食べてたわけじゃないけれど、それでも町の警備のおじさんにおにぎりつくって渡したりしてね。そういう家で育ったんです」

 

町には、銭湯がふたつあって、片方は花街の芸者衆が、片方は下町の子供たちが通っていた。中澤さんはどちらの銭湯にも入った。芸者衆の背中を流す三助さんの仕事ぶりを観察しては、町内の銭湯で、「ほら、こうやって洗うんだよ、気持ちいいだろう?」と、近所の子供たちの背中を次々と洗っていたという。

 

「学んだことを無駄にしないんですよ、私(笑)。そうしたら母がね、晩年私にこう言ったんですよ。『照子のおかげで、銭湯で背中が空いたことがなかった』って。私が背中を流した子たちが大きくなって、みーんな、いつも、うちの母の背中を流してくれたんだって。『照子のしたことが、ぐるっと回って私に返ってきたよ』って」

 

10代の終わり頃に入り浸っていたジャズ喫茶でも、中澤さんの周りにはいろんな人が集まってきた。『お照さ〜ん、聞いてよ〜』と恋愛相談をしてくるいかついゲイのお兄さん。どうしようもない男と知っていながら別れられず、『でも優しいのよ。雨の日に傘持って迎えに来てくれるんだもの』と泣く風俗嬢。誰の話も「そうかそうか」と聞いては、そっと寄り添ってきた。

 

「だから、57歳のときに『保護司になってみませんか』と声をかけられたときも、保護司なんて言葉すら知らなかったけど、活動の内容を聞いて、そういうことならできるかな、と。それまでやってきたことと、何も変わらなかったから」

 

 

退任後も刺激的な日々

保護司を引退した今も、「退屈しないのよ、向こうから刺激がすっとんで来るんだから」と笑うほど、中澤さんの元にはいろんな人がやってくるし、いろんなことが起こり続ける。なかでも、中澤さんお手製の「更生カレー」にまつわるエピソードは語り尽くせないほどある。

 

「保護司時代に、よくカレーを作って食べさせてたんです。お腹をすかせてる子、さみしい子が多かったからね。それが『更生カレー』なんて言われて、メディアで話題になったんですよ。そうしたらある日、思い詰めた人から『カレーを食べさせてほしい』って連絡があってね。そして『死にたい』と。どうしよう、って困ってたところに、ちょうど、刑務所生活の経験がある子が店にやってきたから、相談したんですよね。そうしたら、『中澤さん、食わせることないですよ』って怒っちゃって」

 

「更生カレーは、やり直そうとしている人間のためのカレーだ」というのが、彼の言い分だった。「死のうとしてるやつに食わせるためのもんじゃない」と。

 

「私、はっとしたんですよ。そういう覚悟で私のカレーを食べてくれたんだな、と。思わず『君、いいこと言うね!』って褒めちゃった。そんなふうに、私の作るカレーを大事に想ってくれてる子が大勢いるんです。一食で更生する子もいれば、何回食べても更生しない子もいるけど、材料を担いで持ってきて『中澤さん、これ使ってくれよ』な〜んて言って差し入れてくれたり、後片付けも手伝ってくれたりね」

 

保護司としての活動に対して、2018年に藍綬褒章を授与されたときは、周囲の人たちが喜んでくれた。「着ていくものがないから皇居には行かなくていい」と言う中澤さんに素晴しい着物を着せたのは、歌手の小林幸子さん。実は中澤さんは、20代のころ、古賀政男音楽事務所で働いていて、10歳でデビューした小林幸子さんの初代マネージャーを務めていたのである。

 

「彼女、すごく喜んでくれてね。衣装部屋で、この老女をどうにかカッコつけさせようと、あれこれ選んでくれて。ほーんと幸せだった」

 

そして先日は、中澤さんが「うちの長男」とかわいがる男性が、温泉旅行に連れて行ってくれたのだと、嬉しそうに話す。

 

「刑務所に入っていた間、毎月毎月、手紙をくれた子でね。、刑務所から出す手紙は7枚までと枚数が決まっているんだけど、いつも少しの無駄もなく、素晴しい内容で。私がちょっと伝えたことを、自分なりにしっかりと考えて、返してくれた。本当に打てば響く子で、こっちも“響かせてもらった”んですよ。その子がいろいろ手配してくれて、ふたりで温泉旅館に泊まってね。『なんだこれお布団くっ付きすぎだ、離せ離せ』なんて(笑)」

 

 

カフェは“中澤船”の停泊所

「今朝、ひとり息子が少年院に送られました」と涙ながらに話す父親。中澤さんの記事を大切に持って九州から飛行機できた男性。保護司になりたいという若者。さまざまな人が、今日も中澤さんの元を訪れる。保護司になることを強く反対し、その後もずっと心配し続けてきたひとり娘に、「お母さん、保護司は引退したけど、月1回の報告書提出がなくなっただけで、やってることは何も変わってないね」と言われたと苦笑する。

 

「本当に、子供に心配ばっかりかけてる“子不幸”な親ですよ。でもねぇ、私はこの店を、船が停泊しているようなものだと思っているんです。中澤船という船が、ここに流れ着いて、いろんな人が立ち寄っていく。私はね、いつも、誰かからきっかけをもらって、後押しされて、生きてきたんです。すごいですね、とか、偉いですね、ってよく言われるけど、全然ですよ。古賀先生のところで働いたのも、保護司になったのも、自分で努力してそうしたわけじゃなくて、人に後を押されて、生かしてもらっただけ。だからね、私も、誰かに何かのきっかけをつくりたいんです」

 

店に飾られたたくさんの写真が、中澤さんのやってきたことを代弁する。中澤さんを囲む大勢の笑顔。あるときは同窓会のように、あるときは家族の集まりのように。深く関わり合ってきたからこその親密な空気が伝わってくる。

 

「昔さんざん私が心配した子が、『中澤さん、無理しないでくださいね』って78歳の私を心配してくれる(笑)。私の胸の中には、小さな引き出しがいっぱいあるんですよ。どれを開けても、光るものが出てくる。それがエネルギーになって、またエンジンがかかっちゃうのよねぇ」

 

中澤さんが大切にしてきた、母親との約束事がある。「善悪の線引きを守ること」「人に優しくすること」「元気でいること」。

 

「こないだも、『こんな年になるまで、お母さんとの約束を守って、とんでもない“いい娘”でしょう?』って、家のベランダから空に向かって話しかけましたよ。人に優しくするのに資格はいらないから。無資格でできるでしょ?それで世の中の人に喜んでもらえて、こんなに幸せなことはない」

 

取材を終え、再び「カランコロン…」とカウベルを鳴らして店を出ると、外は暗くなっていた。ふと、昭和の風情を残す団地の方に目を向ける。あかりのついた部屋もあれば、暗いままの部屋もある。「ある家族がね、もめてもめて、家の中が大変なことになっていたんだけど、その母親に言われたことがあるんです。私は団地の上の方の階に住んでいるですけどね、『中澤さんちを見上げては、電気が灯っているのを見て、ああ、ちゃんといるな、いてくれるなって、いつも思うことで辛抱できたんです』って。そんな話を聞いてから、夜中でも家のあかりをずーっと消さないでいた時期もありましたよ」という中澤さんの話を思い出す。

 

その優しさが、明るさが。人の道を照らし、心を照らす。

 

 

Café LaLaLa

東京都江東区辰巳1-1-34-2F ☎︎03-5534-6433
営業時間:10:00~18:00 定休日:日曜日

ライター情報

剣持 亜弥
剣持 亜弥

岡山県生まれ。 編集・ライター歴20ン年。ジャンルを問わず、「人の話を聞いては書く」日々を続けている。湘南に暮らす。読書、日本美術、磯遊び、スガシカオと藤井風、角ハイボール、小中学生の合唱、暗殺教室と鬼滅の刃、小林カツ代先生のレシピをこよなく愛する。空手黒帯(現在初段)。いつか尊敬する先生の道場を手伝いたいと思っている。
Works/『Precious』『和樂』(小学館)、『日経エンタテインメント!』(日経BP社)ほか。