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インタビュー

不登校の子どもたちに“今を生きる”喜びを

 

中学受験で6校全滅、「人生終わった」

「不登校新聞」は、その名のとおり、「不登校」をテーマにした新聞だ。毎号、体験談や有識者の話、不登校に関する情報が紹介されているが、最大の特徴は、つくり手が不登校やひきこもりの当事者・経験者であるということ。2006年から編集長を務める石井志昂さんも、不登校経験者である。

 

「地域の野球チームに入って、友達と明るくにぎやかに過ごしている子どもだった」という石井さんが不登校になったきっかけは、中学受験だった。

 

「夏休みに、親が急に『いいかげんに勉強しなさい! 塾行きなさい!』って怒り始めたんですよ。1日中家にいてバタバタされるのに嫌気がさしたんだと思うんですが(笑)、それで入ったのが、たまたま、都内のトップレベルの中学校に多くの合格者を出していたスパルタの進学塾で。そのまま私も、中学受験を目指すことになりました」

 

入塾当初は、すごく褒められた。学歴エリートへと駆け上っていく感覚が、石井さんにも、おそらく親にも、大きな達成感を覚えさせた。しかし、徐々に“受験戦争”は熾烈になっていく。テストがある度に、子どもたちは成績順に整列させられ、できる子、できない子が一目瞭然に。先生は成績の悪い子にひどく冷淡な態度をとった。偏差値50のラインで手を広げ、「ここより下のやつは、人生はないと思え」と言った先生もいた。恫喝し、教科書でたたくことも日常的だった。そんななか、だんだん成績が伸びなくなってきた石井さんは、ストレスから万引きをするように。塾が終わった後、9時10時まで、街の中をさまよい、万引きを繰り返した。

 

「クレプトマニアですね。なんの罪悪感もなく、欲しいからとかそういう意図もなく。塾も家も、安心できる場所がなくて、精神的に追いつめられていたんでしょう。当時の自分の写真を見てびっくりしたんですが、本当に子どもなんです、幼いんですよ。あんな小さな子どもに、『人生はない』なんて、よく言えたな、と。塾ごと、おかしかったんです。先生も、通っていた自分も、あのやり方を支持していた親も全部、学歴信仰のために、おかしくなっていた」

 

そしていよいよ受験の日がやってきた。石井さんは合格確実と言われていた学校も含めて6校を受験。結果は、すべて不合格だった。

 

「ああ、自分の人生に、この先はないんだ、と、完全に自己否定に陥りました。周囲は励ましてくれましたが、塾で2年間かけて刷り込まれた価値観は、そう簡単にはくつがえりません」

 

進学した公立中学校は、校則の厳しい学校だった。今でいうブラック校則に、石井さんは激しくかみついた。その苛烈さは、同級生たちも驚くほど。「屈辱的で、尊厳が踏みにじられているように感じていた」と同時に、「こんな目に遭うのも自分が受験に失敗したからだ」という思いがあった、と石井さんは振り返る。実際、「あなたは行きたい学校に落ちてここに来たんだから、諦めて校則に従いなさい」と言った教師もいたという。そして中学2年生の冬。それまで毎日休むことなく学校に行っていた石井さんの、張りつめていた糸がプツンと糸が切れた。初めて「学校に行きたくない」と親に言った、そのときにようやく、石井さんは、自分はずっとつらかったのだということを自覚した。

 

こうして石井さんは、不登校になった。

 

 

フリースクール「東京シューレ」との出会い

学校に行けなくなる少し前に、石井さんは1冊の本と出会っていた。『学校は必要か―子どもの育つ場を求めて』(NHKブックス)。自分が毎日毎日考えていたことそのままのタイトルに興味をひかれ、手に取ったその本には、校則もない、制服もない、大人と子どもが対等の関係を築いているフリースクールのことが書いてあった。

 

「こんなユートピアがあるんだ、と。だから、学校に行けなくなったとき、自分から親に、『ここに書いてあるフリースクールに行きたい』と言ったんです」

 

石井さんは母親とともに、『学校は必要か―子どもの育つ場を求めて』の著者が主宰するフリースクール「東京シューレ」に見学に行った。帰宅後、母親は壁に向かって自分の鞄を投げつけ、石井さんに「あんなとこに行きたいの!?」と叫んだ。「学校に行きたくない」と言う息子に理解を示しながらも、既存の“学校”の概念に当てはまらないフリースクールの現状を目の当たりにして、母親の不安と焦りが爆発したのだ。

 

「でも、自分には、そこしか行くところがないと思っていた。だから私は、キレる母の前で、とにかく殊勝な顔をしているしかありませんでした。親も、もがいていたんだと思います。結局は、私の気持ちを汲んで、東京シューレに行かせてくれたわけですが、通っている間、私自身も、“許されている”と“許されない”、半々の気持ちでしたね」

 

石井さんが16歳のとき、「不登校新聞」が立ち上げられた。きっかけになったのは、その前年、1997年の夏休み明け前日に起こった中学生の自殺。東京シューレの代表である奥地圭子氏が、学校だけが居場所じゃないということを伝えたいと、仲間とともに創刊。最初、当事者として取材を受ける側だった石井さんが、取材をする側にまわって「スタッフになりたい」と申し出たのは、19歳のとき。理由は明快だ。

 

「取材、っていうのが、それまでやってきたことのなかで、いちばん面白かったから」

 

そして、そのまま、今に至る。

 

 

取材で感じられた「生きる喜び」

 

「不登校新聞」の取材は、いろんな意味で、すごい。取材をする聞き手は、不登校やひきこもりのただ中にいる当事者・経験者、つまり子どもと若者である。そして、彼ら彼女らが取材相手に聞くのは、「自分が聞きたいこと」だ。「社会問題となっている不登校」ではなく、「僕・私個人の不登校」について。それも、自分が会いたい人、話を聞きたい人、そうそうたる文化人や著名人に、直接会って聞くのである。

 

現在は編集長として、子ども・若者編集部の面々の「怖いもの知らず」について苦笑混じりに話す石井さんも、スタッフになりたての19歳のころは、「いい話してくれるおじいちゃん見つけた」くらいの感覚で、戦後思想の巨人と呼ばれた吉本隆明氏にインタビューを申し込み、4時間半話を聞いてくるという「怖いもの知らず」っぷりを発揮していた。

 

「不登校になったとき、幸いにしてうちの親は、学校に行かない私を認めてくれましたが、それでも自分の中では、『終わったな。もう死んでもいいな』と思ったんです。でもその後、フリースクールに通ううちに、それが『死んでもいいけど、今じゃなくてもいいかな』くらいにまではなってきた。そして、不登校新聞のスタッフになって、糸井重里さんやみうらじゅんさんら、憧れの人に会って話を聞くことができたとき、『生きててよかった』と思えたんです。そういう日が1日でもあれば、人はなんとかやっていける。その感覚を、今、不登校で苦しんでいる子どもや若者たちにも、体験してほしい」

 

不登校新聞の取材の現場は、「今を生きる時間」だと石井さんは言う。不登校の当事者・経験者としての自分を取材相手にぶつけることは、今そのときにしか出せない“実力”であり、取材される側もその想いを真剣に受け止め、応えようとする。大人も子どもも関係なく、人と人として、互いを尊重しあっている場。それは、かつて石井さんを苦しめた、人の尊厳を踏みにじる理不尽な指導や校則とは真逆のものだ。

 

「今の学校教育は、将来のための準備ばかり。でも、本当に大切なのは、“今を生きる時間”なんです」

 

だから不登校新聞は、自己実現や職業斡旋など、将来のための手だては提示しない。子ども・若者編集部員たちの「進学や就労といった“ささいなこと”は覚えていない」と石井さんは笑う。ただひたすら、今に、自分自身に、向き合う。一見、近視眼的のように見えるけれど、そのときに語られる言葉には、普遍の意味が宿っているから、不思議だ。

 

2018年、不登校新聞創刊20周年のタイミングで刊行されたインタビュー集『学校に行きたくない君へ』(ポプラ社)が、不登校・ひきこもりという問題の枠を超えて話題になったのも、そこに込められたメッセージがさまざまな人に確かに届いた証だ。過去の膨大な記事からピックアップされた20人の記事には、たくさんの大切なことが散りばめられていた。

 

「過去にとらわれるな、今を生きよ、とは、仏陀も言っていること。人が考えていること、悩んでいることって、いつの時代もだいたい一緒なんですよね」

 

人が語る。人が聞く。その瞬間に生まれる希望がある。石井さんはそのキラキラと輝く“今”のかけがえのなさを、強く信じている。

 

 

不登校新聞
https://futoko.publishers.fm/

ライター情報

剣持 亜弥
剣持 亜弥

岡山県生まれ。 編集・ライター歴20ン年。ジャンルを問わず、「人の話を聞いては書く」日々を続けている。湘南に暮らす。読書、日本美術、磯遊び、スガシカオと藤井風、角ハイボール、小中学生の合唱、暗殺教室と鬼滅の刃、小林カツ代先生のレシピをこよなく愛する。空手黒帯(現在初段)。いつか尊敬する先生の道場を手伝いたいと思っている。
Works/『Precious』『和樂』(小学館)、『日経エンタテインメント!』(日経BP社)ほか。