きっと、だれかの励みになる。
人生を応援するインタビュー・マガジン

インタビュー

今、困っている人がいるから作る。アフリカで義足製作に人生をかける日本女性の軌跡

日本滞在中に、彼の装具が壊れたことが導きに

1989年、26歳だった吉田(旧姓)真美さんは、リュックひとつでアフリカ、ケニアのナイロビに飛んだ。目的はスワヒリ語を学ぶための留学。この行動が、のちに彼女の人生を大きく変えることになった。

 

「東京・丸の内の、特許を扱う法律事務所で普通のOL生活を送っていたんです。変わりばえのしない毎日に、このまま自分の人生は過ぎてしまうのだろうかと、焦りや不安を持っていました」

 

そんな時、本屋さんでふと手にした旅行本『地球の歩き方』。留学の記事を見つけた。

 

「特にアフリカに興味があったわけではなくて、何か変化が欲しかった。5か月間の留学費が寮込み、飛行機代も入れて確か70万円くらいでした。思ったより格安ですぐに行ってみようと決めました」

 

住み始めたところ居心地がよく、滞在を1年間、延長した。ここで知り合ったのが、友人と同じ長屋に住んでいた9歳上のルワンダ人、ガテラ・ルダシングワ・エマニュエルさんだった。情勢が不安定なルワンダを離れ、難民としてケニアで暮らしていた。友人の帰りを待つ少しの間、会話をかわしたという。彼は子供のころ病気に罹り、治療ミスで障害があった。

 

「臀部に注射をうって、そのとき神経がマヒしてしまったと聞きました。障害が残ってしまったために、家族に見捨てられて、障害者施設で育っていた。当時から紛争が繰り返される中で虐殺されることを恐れた家族は、息子が足手まといになるからと置き去りにして、他国に逃げてしまったようです」

 

民芸木彫の土産物を売りながら生計を立てていたガテラさん。ルワンダをはじめとするアフリカの政情、民族間の絶え間ない対立……について聞いた。これまで日本でのんびりと暮らしていた真美さんにとって、それは初めて知る、世界の重い現実だった。

 

「留学期間を終えて帰国した時、待っていたのは失恋でした。2か月後のクリスマスの日に彼だった人からふられたんです。ふっとガテラさんのことを思い出して、『ちょっとつらいんだ』と手紙を書きました。まだ携帯電話も、インターネットもない頃でしたから」

 

初めて会った時から、互いに惹かれるものがあったのだろう。真美さんにとっては「信頼のできる、温かな人柄」の男性として心に残っていた。文通が始まった。だが中には『ドイツに出かけてルワンダに帰国した時、敵対する民族だと拘束されてひどい拷問を受けた、ドレッドの髪もひきちぎられて』と写真が添えられたものもあったりと、手が震えた。身近な知り合いがこんな目に遭うことがあるという現実に、あらためて恐怖した。

 

「一度、日本に来てみませんか」と訪日を誘ったのは、91年のことである。生まれ育った湘南、茅ケ崎を案内している時に、長年の装着で古びていたのだろう、ガテラさんの装具が壊れるという出来事に遭遇した。

 

「あわてて修理ができる所を探して、横浜で装具を作っている平井義肢製作所という所を見つけました。訪ねると、工房では義肢装具士と呼ばれる人たちが、石膏のついた包帯で型どりをしたり、忙しく働いていて。彼が、その様子をじっと見ていたのが、印象的でした」

 

「私は私で、これで彼の新しい装具が作れると、うれしくて。まだ漠然とですが、やりたかったことの道筋が見えた、と思いました」と笑みを浮かべる。そして真美さんは早々と工房の親方に、「ぜひ弟子入りさせてください!」と頼み込んだ。

 

「迷いはいっさいありませんでした」

 

 

“ルワンダの虐殺”で知った、世界の不条理

義肢を製作するには、国家資格である義肢装具士の資格を取得しなければならない。弟子入りが許された真美さんは、その日から5年間、自給400円という環境で必死に技術を学んだ。

 

「親方は、昔気質の頑固なタイプで、ものづくりにこだわる方でした。厳しくてやさしかった。私自身、習っているうちに面白くなって、くらいついていったといいますか」

 

中学生の時、母を亡くしていた真美さんは父と暮らしていたが、突然に義肢装具作りという道を選んだ娘の真意を測りかねているようだった。

 

「でも行動で示すしかないと思いました。言葉だけだと嘘だったりもしますよね」

 

ルワンダに帰ったガテラさんとは、ひと月に一度、公衆電話から電話をした。ふたりの大切な時間だった。

 

ルワンダで、世界を震撼させた大虐殺が起こったのは、94年のことである。音信が途絶え「もう彼は死んでしまったのかもしれない……と思って、居ても立ってもいられなかった。でも3か月を過ぎたころ、電話がきたんです。難を逃れていたと知りました。この時、この人と生きたいと思いました」

 

翌年、休職してルワンダへと飛んだ。

 

「彼は私に『見せたい場所がある』と、ある教会へ連れて行ってくれました。5000人ものツチ族が虐殺された教会です。まだ何も手を付けることができない状態で、遺体も残されているような状態でした。腐臭に満ちていて……。こんなことが本当に起こるんだ、自分の人生で人が果てていく匂いを嗅ぐことがあるなんて……思ってもみなかった。強烈な体験でした。皆、教会は安全な場所だからと、家財道具や毛布やナベ釜を持って、子供はおもちゃを持って駆け込んだ。そこを狙ったんですね。

 

さっきまで生きていたはずの人たちなのに、一瞬でいなくなってしまった。……そんな中で、恥ずかしいことですが、彼が生きていてくれてよかったと正直、思いました」

 

庭に出ると、目の前に生い茂る木があった。

 

「夏の風がさわさわと葉っぱを揺らす音がした。ヘンに静かで……そのコントラストが何ともいえなかった。たまたまこの時代、この国に生まれただけなのに……どうしようもない不条理だと思いました。今でもあの場所に行くと思います」

 

この地で、足を失った人たちの手助けをしたい。真美さんの中に確かな決意が生まれた瞬間だった。

 

無事に義肢装具士の資格を取得した真美さんは、ルワンダへと渡った。

 

そして、『ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト』をガテラさんと共に発足。97年、首都・キガリで自治体から譲り受けた、バーを日本で集めた寄付金で改築し、義肢製作所を設立した。その後、ルワンダ政府から1.5ヘクタールの土地を譲り受けて、活動の拠点とした。

 

「かつて彼はムリンディという、当時、愛国戦線反政府の拠点があった小さな村に出かけていました。愛国戦線の兵士たちや、他国に散らばって逃げていたルワンダ人たちの決起集会があったんです。彼らは皆、あらゆる虐殺を止めようとする志を持って集まっていました。そこに彼は、日本から担いで帰った義足を持っていき、『ルワンダが落ち着いて平和になったら、足を失くした人たちに義足を作りを始める』と宣言していたんです」

 

 

2001年に、ふたりは結婚。

 

立ち上げた製作所には、さまざまな人がやってきた。

 

「大虐殺で、手足を失ったという人は非常に多かったし、それまでの紛争で足を失くしたり、地雷にやられたり、争いに関係なく障害を負っている人たちも多くいました」

 

「無償ではなく、本当は商売として成立させられればいちばんいいんですよ。でも結局のところ、訪ねてくる皆、お金を持っていないんです。現実問題として、足がなければ仕事もできず収入が得られないわけで、ない袖は振れないでしょう。じゃあ、支援という形でやるしかないじゃないですか」

 

当然、運営していくためには資金がいる。真美さんは年に一度は帰国して「このギリギリの現状を、できるだけお伝えして寄付を募る活動を」重ねてきた。主に学校や企業などで講演を行う。

 

「支援を必要とする人たちがたくさんいるのに、やらないわけにはいかない。細かく話さなければ何も伝わらないから」

 

だがある頃、寄付を募る自分の行為がつらくなったという。「たえず寄付をしてもらっている自分を、卑屈に感じることが多くなったんです」

 

少しでも自分たちの手で運営費と生活費を賄おうと、レストランとゲストハウスの経営を始めた。店は、木のテーブルにギンガムチェックの布をかけたスタイル。ルワンダの人を雇って食事を提供してきた。

 

「ゲストハウスは観光客のためもありましたが、遠くから義足を作りに来る人が、泊まれる場所を作りたかったんです。でも、結局のところギリギリで、寄付をお願いしているのは変わりません」

 

大洪水で、製作所を失う試練に見舞われて

そうやって25年が過ぎた。義肢装具士になる技術を教え、またパソコン技術などを教えるなどの職業訓練や、就労支援も行うという地味な活動を重ねて、義肢製作所から独立していった人たちもいる。

 

「大変なのに、なぜ続けているのですかとよく聞かれます。でも私には特技も何もない、できることが他にないからなんです。それからここでやめるわけにはいかない、引いたらカッコ悪いという意地もあります(笑)。それは、この活動を支援してくださっているたくさんの方たち、その気持ちをムダにするわけにはいかないという、いい意味でのプレッシャーをもらっているということでもあって、続けてこられたと思っています」

 

真美さんは大上段に、福祉精神を讃えられることを何よりも嫌う。

 

「人助けとか言われると、そういう気持ちでやってはいませんと、言い返したくなるんです。ひねくれているんですよ(笑)。きれいごと、美談にしたがる人たちが多いんですけれど、そんなことは正直、どうでもいいんです。今、ここに義肢を必要としている人がいるから、作る。どこかで何かの役に立っている、そういうことだと思うんですね。こういうことって、どんな仕事をしていても、きっと同じなんだと思います」

 

そして「この活動が、ある程度知られたことで、急に関与したいと言ってくる人たちがいることもイヤですね」と加えた。

 

不毛かもしれぬ土地を耕し、水路を引き、ゼロからスタートしてきた。そこには数知れぬ困難をくぐり抜けてきた、ルダシングワ夫妻だけが知る年月があるはずなのだ。

 

昨年のクリスマス。最大の試練がふたりを襲った。大雨による大洪水が起こり、地盤のゆるい湿地帯に建てられた製作所は大きく浸水した。危険区域ということで、政府から立ち退き命令が下った。NO! と声を上げ続けたが、政府側は強制撤去という暴挙に出る。結局、嘆願は聞き入れられず、悔しさを胸に退去せざるをえなくなった。

 

現在は貸家で少しづつ製作を再開。再建をめざして、クラウドファンディングに踏み切った。今年(2020)も、日本に帰国して「現状に力を貸して欲しい」と訴えたかったが、前代未聞のコロナ禍の中、ほとんど働きかけはできなかった。

 

「1階は工房、2階にレストラン、3階にゲストハウス、という建物を建設したいと思っています。建設するための費用の、一部を集める目標として800万円を目指し、大部近づいてきてもう少しのところまできました。感謝しています」

 

生涯、ルワンダで過ごしますか、と尋ねると「わからないです」と率直に答えた。

 

「もしも彼が先に逝くときがきたら、私がルワンダにいる意味はあるだろうか、ともふと思うんです。そして私がいつか死ぬときが来たら、骨の半分はルワンダに埋めてもらって、半分は日本に、なんていうことも考えます。でも今は、ともかく目の前のことに全力で立ち向かって、一日、一日をしっかりと生きていくだけです」

 

クラウドファンディング

「ルワンダの義肢製作所が強制撤去!再建に向けて立ち上がれ!」

https://readyfor.jp/projects/rwandagisokusaikenonelove

ライター情報

水田静子
水田静子

『人、語りて』編集長 
静岡県生まれ。出版社・雑誌編集を経てフリーランスとなる。女性誌にて人物インタビューを執筆。女優、俳優、作家、音楽家、画家、映画監督、文化人等、表現世界に生きる人が多い。その他、アスリート、起業家、各分野の職人など、取材数はのべ3000人を越える。ていねいな取材と文章で、その人の本質に光を当て、伝えることを至上の喜びとする。単行本の構成、執筆、出版プロデュースも行う。
Works/『Precious』『Domani』(小学館)、『エクラ』(集英社)、『With』(講談社)、『家庭画報』(世界文化社)、『婦人公論』(中央公論新社)、『JUNON』(主婦と生活社)、『ゆうゆう』(主婦の友社)、『VOGUE』『GQ』(コンデナスト・ジャパン)、『SKYWORD』(JALブランドコミュニケーション)、『ボン・マルシェ』(朝日新聞)、『Yahoo!インタビュー』ほか。近著にインタビュー集『硬派の肖像』(小学館)など。第1回ポプラ社小説新人賞特別賞を『喪失』にて受賞
HP:www.interview358.com