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インタビュー

生きづらい人たちを、チームで支えたい。 在宅医の道を歩む、ひとりの医師の選択と決断

医療に進むきっかけとなった、祖父の死

神奈川県・藤沢市の農村地帯に、在宅医、片岡侑史さんの『ココロまち診療所』はあった。畑と竹林に囲まれた平屋。質素な木の看板に診療所と書かれていなければ、普通の民家として見過ごしてしまいそうだ。そして玄関の外に出てきてくれた片岡医師が、これまた優しげで素朴な風情の人だった。

 

「ここ、築70年なんです。もともと下請け工場の建物で相当に古かったのですが、なんとかリノベーションしました」

 

現在、看護師3名、管理栄養士1名ほか総勢10名で運営、藤沢市、綾瀬市と合わせて100人弱の患者を診療する。患者は通院が容易ではない人たちをはじめ、その環境はさまざまだが、片岡さんは車で個々の家々を廻り、夜間に求めがあれば出かけて行く。

 

「もっとたくさんの方を診たいのですが、責任を持って応えられるのは、100人ほどが限度なんです。夜中の往診? 在宅医ですから、あたりまえに行きますよ」

 

患者の年代で最も多いのは70から80代だという。片岡さんはそのひとりひとりと丁寧に向き合う。

 

「診察、薬……と必要な医療以外では、8割以上、世間話をしていますね。趣味とか仕事とか、家族のこととか、何ともない日常のことです。今は医療制度のゆがみをはじめ、お金、病気、家族関係、障害、子育て……と苦しいことが多く、生きづらい人だらけの世の中じゃないですか。悩みごとや困りごとがあれば、然るべき人に頼んだり、世話になったりとつなげるのも僕の仕事なんです。生きづらい人を地域全体で支えていきたい」

 

“ココロまち”という名称には、そんな片岡さんが込めた温かさが感じられる。

 

医者を目指したのは、中学3年生のときだという。祖父の入院生活を見たことがきっかけとなった。

 

「横浜の大きな病院でしたが、シーツの交換ひとつとっても、扱いが手荒で患者に対してぞんざいな印象だったと聞きました。すごく悔しかったし、あの時から医療というものを疑問視するようになりました。祖父は医者ではありませんでしたが、他界する前に『医者になれ』と遺していって、なぜそう言ったのかわかりませんが、それが僕の後の人生に影響しました」

 

もともと母親が教育熱心な家庭だった。小学校低学年から塾通いをした。

「ところがかなりやんちゃなもので、塾では私語がうるさくて、よく立たされたりしていました(笑)」

 

やがて中高一貫校に入学したが、しだいに成績が落ち始め先生に呼び出されるようになった。同時に「明るかった性格もみるみる暗くなって、ひねくれていきました」と苦笑する。

「年齢的にも反抗期の頃ですからね。自分と周りとは違うんだと思いたがっていたし、父にこっぴどく叱られたりもよくありました」

 

その時期、支えになっていたのは、他界した祖父からもらった言葉だった。「医術の道へ進め」。その気持ちになんとか報いたいと思った。

 

「父は普通のサラリーマンでしたし、特にお金があった家ではなかったので、なんとしてでも市立に入学しなければなりませんでした。でもセンター試験はD判定だったんですよ。猛烈に挽回するしかありませんでした」

 

 

日本社会の在り方を見つめざるをえなくなった

 

2002年、無事、横浜市立大学医学部に合格する。

 

「入学してからは、ずいぶんとアルバイトもしました。引っ越し屋さんや、コールセンター、イベントの会場設営……とか。引っ越し屋さんのバイト料はちょっとよくて、うれしかったですね。世の中にはいろいろな人たちがいるのだと知りました」

 

生涯の仕事となる「担当科」を選択するとき、「自分は外科のように、ひとつの患部に向かう職人系の人間ではないだろう」と判断して「総合的に人を診る内科を選ぼう」と決意した。卒業後の2年間、内科研修医として藤沢湘南台病院に勤務する。

 

「この初期研修でその後の運命が決まりますから、必死でしたね。でも、どんな領域でもそうじゃないですか。最初に頑張らないやつはずっと頑張らないし、そこでものになるかどうかが試されるというか。けれども正直いってむちゃくちゃ失敗だらけでした。採血がうまくできないことから始まって、症状を見落としたこともありますし、当直だというのに電話がかかってきても寝ていたとか……学生時代と違って、同僚や上司といった人間関係も一挙に増える。でも全然うまく対応できないんです。本当にダメダメな研修医の典型でしたね。一緒に働いていた人たちが、どれほど尻ぬぐいをしてくれたことか」

 

だが、それらが医師としての成長を手助けしてきた。

 

「僕は成功体験っていうものがプラスになるタイプではなくて、ほめられてもあまり素直に喜べない性格なんですよ(笑)。ですからさんざんな思いをしてよかったんです。やらかして、怒鳴られて、周りに助けられて、覚えていく」

 

その後、さらに2年間、大船中央病院で内科後期研修を積み、再び藤沢湘南台病院にて医師として勤務を始めた。救急の場や、入院中の患者の”命の看取り”も幾度か経験した。

 

「人の命って、なんてあっけなく無くなってしまうんだろうと思ったり、その真逆で、もうだめだと思ったら持ち直してくれて、その強さに驚くことがあったり。いろいろな現場に直面しました」

 

日々が過ぎ、やがて在宅医療というものがあると知る。

 

「70代のご夫婦がいまして、女性が脳出血をして入退院を繰り返していたのですが、ある時、訪問診療に切り替えたんです。その夫である方がすごかった。毎日ごはんを作って、話しかけて、ドライヴに連れて行って。その献身に心打たれました。在宅という形でこういう看護ができるのだとわかり、その方の主治医にいろいろとお尋ねしました」

 

医者として、何かと混沌としていた時期だったのだろう。自分のすべきことは何かを考えるようになっていた。

 

「病院でできることの限界を感じ始めていたんです」

 

やがて週に1度、アルバイトという形で通い始めた「おひさまクリニック湘南」での、鶴田芳男医師との出会いが、その後の片岡さんを大きく変えることになった。

 

「鶴田芳男院長から、在宅医療を受けている患者が自宅でどのような生活を行っているのか、家庭がどのような関わりをしているのか、在宅医療がどのように関わっているのかなどを、イチから教えていただきました」

 

胸にひとつの明かりが灯った。

 

「けっこうすさんでいましたから。医者になって5年間ほど経って、患者を診て処方するという繰り返しに、これでいいのだろうかと。それなりにやりがいはありましたけど、直面する問題がものすごく多くて。治療費を払えないことで、施せる治療ができなくて助けられないこともあった。支える家族がいない人も……。日本社会の在り方を見つめざるをえなくなりました。僕自身、医者として未熟でもあったし、ひとりの力ではどうにもならない。いくつもの要因が重なっていました」

 

そして「大病院が進める効率化や、経営を第一とするといった矛盾も絡んでくると、僕のような人間の居場所ではないかもしれないと思い始めたんです」と語る。

 

2018年、35歳の時に在宅医療の診療所を開業した。

 

「皆やりたがらず、在宅医は非常に少ない。でも困っている人、生きづらい人を支えられるなら、僕が引き受けたい、そう思ったんです」

 

手探りで始めたが、力になってくれたひとりが、介護事業所『あおいけあ』の代表、加藤忠相さんだった。『あおいけあ』の湘南の施設は2001年に開設。木々の緑の中にグループホーム『結』、小規模機能型居宅住宅『おたがいさん』、サテライト『いどばた』『おとなりさん』が連なり、常に開け放たれていて、地域に住む人々と利用者とがにぎやかに交流をしている。

 

“人に寄り添う”ケアを実践している施設として、全国各地、また台湾や韓国などからも介護事業者らが見学に訪れる施設だという。

 

「加藤さんからは、利用者に対して、介護職がどういった関わりをし、どういった役割を担い、どうやってその人たちの人生を支え、伴走していくのかを教わりました。さらに介護関係をはじめ、たくさんの方々を紹介していただき、その方たちからも伝えきれないほどたくさんのことを学びました。人が元気で長生きをするために大切なことは、研究でもわかっているのですが、地域の老若男女の社会的なつながりです。それぞれが小さくとも役割を持つことなんです。それが生きる力になります。個人の力でどうにかするには、どうしても限界があります」

 

 

患者の看取り後に抱く複雑な思い

 

勤務医だった頃と比べ、チームという形で患者を支えられることが、今は喜びだという。

 

「その人に関わる全員です。妻や夫、子供や孫、友だち、医者、看護師、薬剤師、リハビリ療法士、デイ・サービスやショート・ステイのスタッフ、ご近所の人たちなどなど。もちろん身寄りのない人たちの場合も同じです。常に周りで支える。僕はチームで連携することが好きなのだと思いますし、皆で困難な状況を打破していくことこそが望ましい結果を生むと思っています」

 

むろん日々、よいことばかりがあるわけではない。現実は常にのしかかる。

 

「それぞれ家族の関係は違いますから、たとえば入院が必要となった場合は、入院先期間に直接打診して、了承を得てから救急搬送してもらいます。ただ入院が必要であっても、ご本人が入院を希望しない場合は、入院しない場合のメリットと、デメリットとを提示した上で、ご本人やご家族とじっくり話し合いをします」

 

また、患者との別れの日も、常に医者の日常のひとこまとしてやってくる。

 

「そうですね、看取りのあとの気持ち……はケースバイケースではありますけど、自分の中には、本当にこれでよかったのだろうか、あの時にああしていたら変わっただろうか……と、接し方や投薬について悩むことは多いです。このことについてはお話しし始めたらたくさんありますけど、端的に言えば、もやもやしたものが残りますね。

ただしばらくして、ご遺族の方が『これ、少ないですけど』なんて、手作りのお惣菜やなんかを診療所に持って来てくださることがあって、救われた気分になります」

 

片岡さんは1年ほど前から、診療所のまわりの畑で農作業も行っている。開業前に無農薬、無肥料の自然農業を知り、2年弱、市内の『えと菜園』で栽培の仕方を学んだ。

 

「おかげさまで、野菜のせいか体調はすこぶるよいです。水もやらない、草取りもしないまったく自然にまかせた栽培なので、効率よく収穫なんてできないし、形も悪い。でも農作業は性格に合うようです。筋トレになるし、陽にあたるから骨は強くなる、土を触るので、土中の微生物が体内に入って腸内環境がよくなりますし。

それに僕なりにストレスは溜まりますから、誰にも接しない、黙々とひとつのことに取り組む時間は大切だし、これが楽しいんですよ」と笑う。

 

着る物には無頓着で、土まみれになることはまったく気にならないそうだ。

 

「収穫した野菜は、訪問先におすそ分けしたり、うちのスタッフが調理して食べたり、診療所の軒下に、『ご自由にどうぞ』と出したりしています」

 

生涯、在宅医として生きていく覚悟だ。

 

「医療の限界がいろいろな場面にあって、さらに高齢化が進む時代です。つらい思い、問題を抱えながら生きていかなくてはならない人も多い中で、在宅医療をはじめとする手段はますます必要になっていくと思います。医療制度に依存しない場所を創らなくてはなりません。問題は、なり手が圧倒的に少ないこと。これは大きな社会問題のひとつです。どうにかして後進を育てていきたい、それも僕の課題のひとつだと思っています」

 

 

まるごとケアの家 『ココロまち診療所』

https://cocoromatch-clinic.org

 

撮影/長田由夏里

ライター情報

水田静子
水田静子

『人、語りて』編集長 
静岡県生まれ。出版社・雑誌編集を経てフリーランスとなる。女性誌にて人物インタビューを執筆。女優、俳優、作家、音楽家、画家、映画監督、文化人等、表現世界に生きる人が多い。その他、アスリート、起業家、各分野の職人など、取材数はのべ3000人を越える。ていねいな取材と文章で、その人の本質に光を当て、伝えることを至上の喜びとする。単行本の構成、執筆、出版プロデュースも行う。
Works/『Precious』『Domani』(小学館)、『エクラ』(集英社)、『With』(講談社)、『家庭画報』(世界文化社)、『婦人公論』(中央公論新社)、『JUNON』(主婦と生活社)、『ゆうゆう』(主婦の友社)、『VOGUE』『GQ』(コンデナスト・ジャパン)、『SKYWORD』(JALブランドコミュニケーション)、『ボン・マルシェ』(朝日新聞)、『Yahoo!インタビュー』ほか。近著にインタビュー集『硬派の肖像』(小学館)など。第1回ポプラ社小説新人賞特別賞を『喪失』にて受賞
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